きゅうりに齧り付きながら、女は街を闊歩していた。
私には惑わされない。その女は人ではない。
私の疑念を知ってかしらずか、人に擬態して、祭りを謳歌しているようであった。
私には惑わされない。その女は人ではない。
私の疑念を知ってかしらずか、人に擬態して、祭りを謳歌しているようであった。
21世紀の河童は、限りなく人に近い。
人の父と子。そして、人の女になりすました河童の取り合わせは、いかにも、子連れの若夫婦と言った風情であったが、私の目はごまかせない。
頭にあるはずの皿、背にあるはずの甲羅も見当たらないが、平成末期の河童にはそのどちらも着脱可能なのだろう。
如何に、河童が人間を取り繕うとも、自分の食の好みまでは、偽ることができない。
いついかなる時もきゅうりが手放さない。悲しい定めか、歩きながらもきゅうりをひたすら貪る。
いついかなる時もきゅうりが手放さない。悲しい定めか、歩きながらもきゅうりをひたすら貪る。
そう、それが、私が目の前にいる人のような生き物を河童だと断定する所以である。
2017年の日本で、歩きながらきゅうりを貪るのは、人間であろうか。いや、人間ではない、それは正真正銘、河童だ。
すれ違いざまに、尻子玉を抜かれぬよう、私は肛門をぎゅっと固く結ぶ。
どうやら、きゅうりに夢中らしく、私の尻子玉は抜かれずに済んだ。